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福島地方裁判所 昭和34年(つ)1号 判決

被疑者 山本諫 外二名

決  定

(請求人氏名略)

右の者等の各請求にかかる被疑者鈴木久学、同山本諫、同田島勇に対する公務員職権濫用等被疑事実に関する起訴強制事件について当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件各請求を棄却する。

理由

(本件各請求の要旨)

被疑者鈴木久学、同山本諫、同田島勇等三名は昭和二十四年当時検事として福島地方検察庁に勤務し、鈴木信外十九名に対する汽車顛覆致死被告事件(以下松川事件と略称)の捜査に従事し、かつ右事件の第一審公判には終始立会検察官として在廷していたものであるが、被疑者等によつて構成されていた捜査当局が、同年秋頃東芝松川工場より同工場総務課員諏訪親一郎、西肇両名が同年八月十五日の団体交渉の要旨を記録したもの(以下諏訪メモと略称)を入手するや、それが被告人佐藤一及びその他全被告人の無実を完全に証明するに足るものであることを知りながら、(それゆえに、)共謀して、昭和三十二年六月下旬に至るまでの間、右諏訪メモをいんとくして松川事件の証拠をいんめつし、以て職権を濫用して被告人佐藤一及びその他全被告人の裁判における防禦権の行使を妨害し刑法第百九十三条同法第百四条所定の罪を犯したものである。

よつて請求人等は昭和三十三年十月二十四日被疑者鈴木久学を、同三十四年二月五日被疑者山本諫同田島勇を公務員職権濫用、証拠湮滅罪で最高検察庁に告発したところ、右告発事件はその後仙台高等検察庁を経て福島地方検察庁に移送され、昭和三十四年七月八日いずれも不起訴処分の裁定があつた旨の通知を同年七月十日に受けたが、右処分には不服であるから、右事件を福島地方裁判所の審判に付することを求めるため本件請求に及んだ次第である。

(審判請求事実の法的構成の検討)

本件審判請求にかゝる犯罪事実については、その犯行の着手時期、既遂時期が必らずしも明らかであるとはいえず、且既遂時期の如何によつては本件犯罪事実の公訴時効の完成時期にも影響するので事案の実体の審理に先立ちこれらの点の検討を要するところ、本件犯罪行為の既遂時期についてはその犯罪行為が所謂即時犯であるかそれとも継続犯であるかによつて結論を異にするので、先ず本件審判請求事実がその何れに属するのかを討究し、更に以下右討究の結果を基礎として本件請求事実に含まれる若干の問題について法的構成を検討することとする。

第一、本件審判請求にかかる犯罪行為の法的性質

(一)  本件審判請求にかかる事実は前記請求要旨に明らかなように証拠湮滅の罪の事実と公務員職権濫用の罪の事実の二つを含み、而して両者は一所為数法の関係にある(請求人岡林辰雄同大塚一男の証人としての供述)というのであるから、本件審判請求にかゝる犯罪行為が即時犯、継続犯の何れに属するかについては、公務員職権濫用罪の行為の実体を構成するところの証憑湮滅罪に該る行為が何れに属するかを決定すれば足りる。

(二)  ところで即時犯とは行為によつて構成要件の内容が実現せられると同時に犯罪が完成し既遂となるものをいい、一方継続犯とは犯罪構成要件の内容たる行為の状態が一定の時間継続することを必要とする犯罪をいうものとせられているが、両者の区別が理論的に特に問題となるのは、即時犯ではあつても重婚罪(刑法一八四条)のように犯罪既遂後も犯罪によつて惹起された違法状態が存続するところの所謂状態犯と継続犯との区別の場合である。蓋し両者共に構成要件該当の事実が完成されることによつて継続的な違法状態が生ずる点類似しているからである。而して継続犯を状態犯から区別する本質的特徴は次の点にあるとせられる。即ち継続犯においては犯罪行為により惹起された違法状態は行為者の意思に従属しつつ持続するということである。換言すると状態犯にあつては行為者は行為をその完成と同時に手離すのに対し、継続犯にあつては行為者は行為の決意を常に更新しているのであり、その結果当初作為であつたものが不作為に転換するのが普通である(尤も継続犯が不作為によつて着手されることもあり得る)。かようにして継続犯の行為者は自己が惹起せしめた違法状態を刻々決意を新たにして持続させ、且その継続的な違法状態を終了させることを拒否し放置しているという点において即時犯ないし状態犯の行為者に対する特色を有するものと認めることができるのである。(参照R. Maurach, Deutsches Strafrecht, AllgemeinerTeil, 1954, S. 597; G. Vidal et J. Magnol, Coursde Droit Criminel, 8e éd, 1935, p.116―117)

(三) しからば本件審判請求にかゝる証憑湮滅の行為は如何。証憑湮滅行為の態様としては種々あり得るが、証憑の隠匿がその一つに該ることは異論のないところである。しかし湮滅行為の通常の態様である証憑の滅失毀損行為についてみると該行為の完成と同時に犯罪が既遂に達することは何人もこれを疑わないであろう。毀損行為によつても証憑の効力が減少するという違法な状態が惹起するが、その状態の継続は行為者の決意とは関係なく存続せしめられるにすぎないからである。では隠匿行為の場合も同様に論ずべきだろうか。又特定の犯罪について行為の態様によつて或は即時犯に属し或は継続犯にも属するということを認め得るであろうか。この点については前述の継続犯の即時犯=状態犯に対する本質的特徴が認め得るか否かによつて結論を導く以外にない。即ち先ず第一に、証憑の隠匿に限らず、およそ物体の隠匿行為が違法性を帯び犯罪構成要件に該るとせられるのは、瞬間的な物体の顕出の妨げられている状態を問題にしているのではなく、一定の時間的な継続状態のもとに物体の所在が不明ならしめられていることが問題とされているのであつて、この点は継続犯の典型例とされている逮捕・監禁罪の場合とその本質を共通にするものと認め得られるのである。隠匿行為者は隠匿行為の完成後も物体を自己の意思の支配下に留め一定の継続時間絶えず物体の顕出を拒否し続けているのであるから、逮捕・監禁罪と同様継続犯としての性質を帯有するものと解すべきである。又第二の点については即時犯・継続犯の犯罪分類法が本来刑法所定の各条文毎に決定せられるのではなく、各構成要件の内容たる行為の実体が一定の時間的継続を不可避とするか否かにより決定せられるのであるから、特定の犯罪構成要件に該当する行為を抽象的に一義的に即時犯・継続犯の何れかに分類することは妥当ではなく、当該行為の一般的形態としては即時犯とせられているものも、その行為の異れる態様及び附随事情によつては継続犯的性質を帯有するに至ることもあり得ると考える(例えば刑法第二一八条保護者遺棄罪における生存に必要なる保護を為さざる行為の如きは事情により継続犯たり得る。参照前掲R. Maurach, S. 597)

以上の理由により本件審判請求にかゝる犯罪行為は継続犯であると解するを相当とする。

第二、本件犯罪行為の着手時間

(一)  本件審判請求にかゝる犯罪事実における行為の着手時期は必ずしも明瞭とはいえない。そこで本件犯罪の罪質及び審判請求書を合理的に解釈してこの点を検討するに、本件犯行の中核は、検察官がその手中にある松川事件の被告人等の無罪を完全に証明するに足る証拠を訴訟関係人の閲覧に供しないし法廷に提出すべき義務に違背して隠匿したというのであるから、所謂不作為による作為犯であり、従つて実行の着手時期は抽象的には作為義務が生じたにも拘らず義務に違背して作為に出でなかつた時点ということができよう。

(二)  それでは次に如何なる内容の作為義務が何時発生したと主張しているとみるべきか。

(1) 公訴提起後において、検察官がその手中の証拠のうち、如何なる範囲において被告人側に閲覧させ或は証拠調の請求を義務付けられているかについては争いのあるところであるが、少くとも、本件審判請求におけるような、被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠については検察官はその職務の性格上国法秩序全体の要求するところに鑑み当然に被告人がその証拠の存在を認識し得るような措置をとる義務を負うものと云い得るであろう(憲法第一三条、検察庁法第四条、刑事訴訟法第一条参照)。且又論理の必然として検察官は爾後訴訟手続の進行を中止(公訴の取消)すべきであろう。

(2) 検察官の右のような義務の発生時期については、次の二つの考え方が成立ち得る。その一つは被告人側から証拠の閲覧請求があつたときに初めて義務が具体的に生ずる(但し証拠は具体的に特定物を指摘せずとも可とする)、その二は検察官が被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠を入手した時又は手持の証拠が被告人の無罪を完全に証明するに足ると認めた時或はそれらの時の後速やかなる時点で生ずるという考え方である。前者の説は検察官の主観に依存せず何らかの客観性ある事柄によつてその時期を劃そうと試みるものであるが、被告人側から何らの閲覧請求もなければ結局犯罪は永久に成立しないこととなり、余りにも偶然に支配されることとなつて不合理であるから後者の説が妥当と思料する。すなわち検察官がその手中の証拠について被告人の無罪を完全に証明するに足るとの認識を抱いたとき、こゝに検察官の挙措進退の如何によつて又検察官の責任において被告人が誤つた有罪判決を受ける危険性、換言すれば被告人の裁判手続における防禦権が妨害される危険性の発生が左右されるからであり、この故にこの時点から速やかに検察官は問題の証拠を被告人に開示すべき義務を負担し、その義務を果さないとき本件犯行の実行の着手があるとみられ得るのである。

第三、本件犯罪行為の完了した時期

本件審判請求書では被疑者等が諏訪メモの隠匿行為を完了し犯罪が既遂に達した時点を昭和三十二年六月下旬毎日新聞福島支局の記者の取材活動によつて諏訪メモが被疑者鈴木久学の手許にあることが明らかにされたときに求めているようであるが、本件犯行を継続犯と解する限り右の主張は筋が通らない。(況して本件犯行を即時犯と解するときには益々然り。)蓋し諏訪メモの所在が新聞紙上に発表されたとしても、諏訪メモが被疑者の手中に依然として存在する限り、被告人の防禦権の行使が妨害されているという違法状態及び検察官が前述のような証拠を開示すべき義務に違背している違法状態は完了せず犯罪は継続しているのだからである。それでは何時右の違法状態が終了して犯罪が完成するのであるかといえば、審判請求書に即して考察するならば、諏訪メモが最高裁判所の法廷に提出されたときにこれを求めるのが正当であると解する。何となればこの時点に諏訪メモが被疑者等の手中から離脱したことが明確となり、隠匿の違法状態が消滅して犯罪行為が完了したと見るべきだからである。

(当裁判所が認定した基本的事実)

以上検討したところにより明らかとなつた本件審判請求事実に即して当裁判所が各証拠により認定した本件審判上基本となるべき事実は次のとおりである。

第一、被疑者等の身分

各被疑者の当裁判所に対する供述によれば、被疑者山本諫は松川事件発生当時(昭和二十四年八月十七日)福島地方検察庁検事であり、右事件発生後直ちに捜査に着手し、事後同事件の捜査主任検事として捜査に継続従事し、起訴後も第一審を通じ終始公判に立会し、その後昭和二十六年八月山口地方検察庁下関支部長に、昭和二十九年三月大阪高等検察庁検事に、昭和三十二年十二月神戸地方検察庁姫路支部長にその後高松高等検察庁次席検事順次転勤し現在に至つており、被疑者鈴木久学は、松川事件発生当時福島地方検察庁検事であつたが同事件の捜査に関与したのは事件後二ヶ月程経た昭和二十四年十月十二日夕刻頃からであり、事後被疑者山本と同様捜査、第一審公判に終始関与し、同三十二年四月同地方検察庁郡山支部長に、昭和三十五年再び同地方検察庁本庁の検事に順次転勤し現在に至つており、被疑者田島勇は、松川事件発生当時福島地方検察庁白河支部長であり、昭和二十四年九月下旬より出張して松川事件の捜査、第一審の公判立会に従事し、同二十六年八月同地検郡山支部長、同三十二年四月仙台高等検察庁検事を歴任し、同三十三年三月三十一日付で退官、同年四月十六日付で福島弁護士会に弁護士を登録し現在に至つているものである。

第二、所謂諏訪メモを被疑者等が入手した経路

(一)  所謂諏訪メモとは、松川事件発生当時、東京芝浦電気株式会社松川工場事務課長代理であつた諏訪親一郎が右事件発生前より作成していた職務に関連した事項の覚え書である大学ノート型のノート二冊を呼称したものであつて、右事件発生後である昭和二十四年十月二十四日頃偶々当時の福島地区警察署警部補佐藤森義が諏訪親一郎を訪問し、同会社松川工場八坂寮真の間において同人から種々聞き込みをした際諏訪から佐藤警部補に手交されたのが捜査当局の手に入つた発端である。たゞ諏訪メモはそのとき右佐藤警部補と同行していた福島地方検察庁検察官事務取扱検事笛吹享三に直接提出した形にして提出書を作成した(以上証人諏訪親一郎の供述)。右佐藤警部補から笛吹検事にどういう経緯で諏訪メモが手渡されたかは明らかではいが、とに角昭和二十四年十月二十四日付の諏訪親一郎作成の提出書と題する書面写、同日付検察官笛吹享三作成の領置目録写、証人笛吹享三の供述等によれば右日時に諏訪親一郎から諏訪メモが笛吹検事に手渡され領置されたことが認められるのである。

(二)  その後諏訪メモがどのように保管されていたかについては、証人笛吹享三の供述によれば、松川事件の捜査中領置した証拠物は福島地区警察署の二階に保管していたので諏訪メモも同署に保管されていたと認め得られる。たゞ証人安西光雄同吉良慎平の各供述によれば、松川事件の捜査の方針は各検事が担当の分野を独自に押し進め、捜査の結果は当時福島地方検察庁検事正の職にあり、且松川事件捜査の総指揮の任に当つていた安西光雄に報告されるにとどまり、各捜査検事間の横の連絡は殆ど遮断されていたので、領置された諏訪メモについては安西、笛吹両検事以外の検事がその存在を知る機会は当然にはない状態にあつたことが認められる。しかもこのような状態は松川事件の最終的な起訴として被告人岡田十良松が起訴された昭和二十四年十二月一日まで続いており、捜査主任の位置にあつた被疑者山本諫も実質的には他の捜査検事と同様捜査中は事件の全貌の細目については知る機会はなかつたのであり、このような経緯からすると被疑者等三名は、自らもそれぞれ供述するように、松川事件の第一審第一回公判の開かれた昭和二十四年十二月五日前頃までは諏訪メモの存在を知る機会を持たなかつたものと認め得るのである。

(三)  従つて被疑者等の供述によれば諏訪メモを被疑者等が入手したというよりもその存在を知り且それが松川事件の立証に関係ある証拠物として認識したのは、被疑者等三名が松川事件の公判立会を担当することに決り、訴訟進行の打合せのため各証拠を点検し始めた第一回公判の前後頃であり、しかも同じ頃被疑者等が諏訪メモ等各証拠の証拠価値について検討し、その訴訟追行上の取扱いについて協議していることが認め得るのである(被疑者等が諏訪メモの証拠価値につきどのように判断し、協議したかについては後に述べる)。

第三、諏訪メモの保管場所の推移

関係証拠によると、諏訪メモは松川事件第一審の公判開始後上告審において最高裁判所大法廷に提出されるまでの間転々とその保管場所を移しているので、移転の理由は別途考察することとして次にその移転の外形的推移だけを検討することとする。

(1)  第一審公判開始頃より昭和二十五年六月末までの間

捜査中福島地区警察署に他の証拠品と共に保管してあつたのを捜査完了後は福島地方検察庁倉庫(福島市新浜町六の福島地方裁判所内福島地方検察庁旧庁舎)に移管し、第一審公判開始後二、三ヶ月内に福島市万世町一三の地方検察庁次席検事官舎内において保管された。保管責任者は副検事大沼新五郎であつた(被疑者鈴木久学、証人大沼新五郎、同桑原力衛の各供述)。

(2)  昭和二十五年六月末より第一審公判における検事の論告終了(昭和二十五年八月末)までの間

主として前記次席検事官舎内若しくは福島市御山町十七番地に在る現福島地方検察庁倉庫内に保管され、保管責任者は副検事大沼新五郎であつた。

(因みに昭和二十五年六月末に現福島地方検察庁庁舎落成し、福島地方裁判所内旧庁舎より移転した)(証人大沼新五郎、同桑原力衛、同星厳の各供述)

(3)  第一審公判における検事の論告終了より昭和二十七年九月中旬までの間

福島地方検察庁次席検事室内に保管され、保管責任者は副検事大沼新五郎であつた(被疑者山本諫の供述、磯山検事に対する大沼新五郎の供述調書)。

(4)  昭和二十七年九月中旬より昭和二十八年七月までの間

仙台高等検察庁公安事務室内に副検事大沼新五郎の依頼で同検察庁検察事務官稲辺三郎が保管した(磯山検事に対する大沼新五郎の供述調書及び検察事務官稲辺三郎の顛末書)。

(5)  昭和二十八年七月より昭和二十九年四月までの間

盛岡区検察庁検察官室内に保管され保管責任者は副検事大沼新五郎であつた(磯山検事に対する大沼新五郎の供述調書)。

(6)  昭和二十九年四月より昭和三十二年六月下旬までの間

釜石区検察庁検察官室内に保管され、保管責任者は大沼新五郎であつた(磯山検事に対する大沼新五郎の供述調書)

(7)  昭和三十二年六月下旬より同年七月十二日までの間

福島地方検察庁庁舎内に保管され、保管責任者は同庁検察事務官島倉保であつた(証人宮本彦仙、同福田正男、同島倉保の各供述)

(8)  昭和三十二年七月十二日より昭和三十三年四、五月頃までの間

最高検察庁庁舎内に保管され、保管責任者は同庁検事神山欣治であつた(証人宮本彦仙、同福田正男、同神山欣治の各供述)

(9)  昭和三十三年四、五月頃より同年九月四日までの間

福島地方検察庁庁舎内に保管され、保管責任者は検察事務官島倉保であつた(証人神山欣治、同島倉保の各供述)。

(10)  昭和三十三年九月四日より同年十一月四日までの間

諏訪親一郎が保管した(証人島倉保、同諏訪親一郎の各供述)。

第四、諏訪メモが最高裁判所大法廷に提出されるまでの経緯

前述のように諏訪メモは長期間にわたり検察当局の手中にあつたものであるが、それが松川事件上告審に証拠として提出されるに至つたのは検察官の証拠調請求によるものではなく、次のような経緯を経てその存在が弁護人側に認知され而して最高裁判所に右メモの提出命令が申請されるに至つたものである。

昭和二十九年一月末本田嘉博外数名の映画作成関係者等が映画作成協力依頼のため北芝電機株式会社(東芝松川工場の後身)を訪れた際、右本田嘉博が諏訪親一郎と面談するうち、偶々諏訪が松川事件捜査当局へ提出し未だ返還を受けていない諏訪メモのことについて言及したところ、右本田がその旨を松川事件の被告人の家族及び弁護人等に伝えたので、こゝに諏訪メモが弁護人等に認知されるところとなつた。弁護人等は早速メモの行方につき探索を開始したが容易に発見できず、こゝに弁護士法第二十三条の二に基き仙台弁護士会所属弁護士で松川事件の弁護人である袴田重司等から昭和三十一年十二月二十二日同弁護士会に対して諏訪メモの所在確認につき北芝電機株式会社から報告を求める申出がなされたところ、同月二十七日付同会社の報告によれば、諏訪メモは其の筋に提出してあり手許にないため内容の報告はできない、事件発生のときより七年以上も経過しているので、提出者は明確に思い出せないが提出したことは確実でありまだ当社には戻つていないという趣旨の回答がもたらされた(証人諏訪親一郎、同岡林辰雄の各供述、当裁判所の照会に対する昭和三十五年八月二十四日付の仙台弁護士会会長中村喜一の回答)。弁護人等は引続き探索を継続していたところ、昭和三十二年六月二十九日突如として毎日新聞福島版に「諏訪メモ発見さる。鈴木検事が保管」との見出しのもとに、諏訪メモが福島地方検察庁で発見された旨の記事が発表され(同新聞写)、かくして弁護人等も検察庁当局に接衝し諏訪メモを含む松川事件関係の未公開の証拠の公開を求めたところが応ずるところとならず、次いで松川事件の弁護人大塚一男は同年秋頃より当時の最高検察庁公判部長検事安平政吉と直接面談し或は内容証明郵便を以て諏訪メモの公開ないし関係者への還付及び勾留中の松川事件被告人等に対する保釈の同意を要請していたところ、昭和三十三年二月二十五日右安平検事は大塚弁護人に対し口頭で「松川事件は目下最高裁に係属中で未確定の状態にあるので証拠物の還付又は公開の要望には応じかねる。勾留被告人の保釈請求の件については希望を承つておきます」という趣旨の回答をなした(証人大塚一男、同安平政吉、弁護士大塚一男作成の催告書と題する書面写、証拠、記録の公開請求について最高検からの回答と題する書面写)。次いでこの問題は衆議院法務委員会でもとりあげられ、志賀義雄委員が昭和三十三年八月九日の委員会を初めとして事後数回にわたり政府側の説明員の説明を求めることとなつたが、同年十月二十九日の委員会で愛知国務大臣から「検察庁では法廷に提出すべきものは全部提出し、還付すべきものは全部還付して現在検事の手元には一つも残つていないという話である」という趣旨の答弁があつて法務委員会での論議は終つた(法務委員会議事録第九号(閉会中審査)昭和三十三年八月九日一二頁以下、同第十一号(同)同年九月二十六日七頁以下、同第二号同年十月七日七頁以下、同第九号同月二十九日八頁以下)。ところがその頃同月二十四日岡林辰雄弁護人等から最高裁判所大法廷に対し諏訪メモの提出命令申請が為されたところ、同年十一月一日に諏訪親一郎に対しメモの提出命令が発せられ、同月五日松川事件上告審第一回公判期日において田中裁判長から諏訪メモは同月四日諏訪親一郎から当裁判所に提出された旨告知され(当裁判所松川事件記録検証調書第二冊)、こゝに諏訪メモは初めて法廷に顕出されることとなつた次第である。

(当裁判所の本件審判請求に対する判断)

第一、弁護人等の閲覧に供された証拠物件中における諏訪メモの存否

上叙の当裁判所の認定事実に即して本件審判請求の当否につき検討するに、先ず諏訪メモが松川事件第一審、第二審を通じて法廷に提出されなかつたことは同事件一件記録に徴し明らかである。そこで次に法廷外においても弁護人等が該メモを閲覧する機会が全くなかつたか否かについてであるが、被疑者等の供述及び本件審判請求書によると第一審公判手続の途中において、弁護人等の請求により被疑者等が裁判所に未提出の領置物件を弁護人等に公開したことがあるので、さしあたつて、その公開物件の中に本件諏訪メモが含まれていたか否かが重要な問題点となるのである。蓋しこの点が肯定し得られるなら、長期間にわたり諏訪メモの法廷に顕れなかつたことは半ば弁護人等の責に帰せらるべきものともなるからである。

(一)  そこで先ず右領置物件の公開に至るまでの経緯をみると、

弁護人側から検察官側に対し検察官の手中にある松川事件の証拠物件を至急還付するよう求めたのは第一審公判記録によると第六十五回公判期日(昭和二十五年七月十日)においてであつて一応検察官側の立証が終了した頃であり、弁護人側の右要望に対し山本検察官は之を了承した旨述べている。次いで第六十九回公判期日(同年七月二十日)において岡林弁護人は再び押収物の還付を催促したところ、鈴木検察官は「どのような書類を必要とされるのか御予定を承り度い」と尋ね、これに対し岡林弁護人は「見なければわからぬでは無いか、我々が見に行くと妨げるでは無いか、検事は明かに我々の立証を邪魔立てする、左様なことは止めて頂き度い」と答え、更に鈴木検察官は「返還を求められるのは被告人提出の書類か、それとも第三者提出のものも含む趣旨か」と尋ねたのに対し同弁護人は「どちらも含む趣旨である」と述べている。そして結局田島検察官が「場合によつては反証として提出する必要のものがあるかも知れないが、一応調べた結果提出する必要のない物は返還することとする」旨述べ善処方を約している。ところが第七十一回公判期日(同年七月三十一日)において大塚弁護人は「一週間の休廷中に検察庁に行つて検察官が押収した本事件の関係書類中未提出のものにつき閲覧の機会を与えられたい旨要求したが、遂にその機会を与えられなかつた。かゝる状態が続く限りわれわれの反証の準備及び提出の機会が阻まれるものである。従つて関係書類中仮還付していないものはどうなつているか回答を求める」と述べたのに対し、鈴木検察官は「押収及び領置した書類はすでに九割以上還付している。その他の中には公判廷に於て提出したものもあり、又手元にあるものの中には審理の進行に従つて提出の可能性があるものもある。又土曜日には閲覧して預くように用意して大沼副検事を待たしておいたのであるが、弁護人の方で来なかつたものである。いつでも閲覧して頂きたい」と答え、更に大塚弁護人が「全部見せることを確約出来るかどうか」を問うたところ鈴木検察官は「全部をお見せするとは確約できない」と述べた。岡林弁護人は「被告人に有利な証拠を事件に関係があると云つて押収してこれを被告人にも弁護人にも見せないでつぶそうとしている。これは検察官の証拠湮滅である。裁判所はそのような不当なことを検察官が職務の名において行われない様に説示して頂きたい」と述べ、被告人もこれに関連した発言し、次いで裁判長は検察官及び弁護人に対し「閲覧するものはし、閲覧させるものはさせる様にしてはどうか」と告げたところ、鈴木検察官は「閲覧せしめて構わない」旨述べた。岡林弁護人は「全部見せるかどうか」質したところ、鈴木検察官は「申出あつたものについて協議して見せる」旨答えた。岡林弁護人は裁判長に「検察官が法廷に提出するものについては当然吾々に閲覧の機会を与えねばならぬものであり、法廷に出さないもの、事件に関係のないものを押えておくことは許されない。それは被告人の無実を証明するものを押えているかも知れぬからである。検察官がかゝる態度を続けるなら公判をおくらせるのみである。裁判所はその提出を命じて頂きたい」と述べた。裁判長は「標目のわからないものは提出を命ずることができない」旨告げた。岡林弁護人は裁判長に「標目については例えば箱二つ、菰包み一つというようなものがあり、検察庁に行くと返したものがあると云うが、菰は返されないしその中にあつたものと称して何ものか分らないものを返しており、標目はわからない」旨述べた。次いで大塚弁護人の「検察官は審理の引きのばしを行つている」との非難があつて後、鈴木検察官は裁判長に「検察官は証拠湮滅等は決してしない。閲覧の申込のあつたものは閲覧させる」と述べた。裁判長は「暫時休憩するからその間に閲覧されたい」と告げて午前十時二十分退廷し、午後一時五十五分再び入廷し、休憩前に引続き審理する旨を告げた。大塚弁護人は裁判長に「本日中には書類全部の閲覧を到底完了し得ないから差しあたり次回公判期日に調べて頂きたい分につき証拠調の請求をする」旨述べている。このような公判廷でのやりとりが交された挙句愈々証拠物の閲覧が行われたわけである。

(二)  被告人、弁護人側で検察官側の手中にある証拠物件を閲覧した者が弁護人岡林辰雄、同大塚一男の二名であること、しかも閲覧は第一審を通じ一回だけであつたことは証人岡林辰雄外関係証人の証言により明認し得るが、その日時については必らずしも判然としない。しかしながら前述の証拠物件の閲覧につきやりとりの交された第七十一回公判期日の翌々日である昭和二十五年八月二日第七十二回公判期日には右証拠物件閲覧の結果と思われるのであるが、裁判所に対して証拠物件の提出命令が弁護人側から申立られていることが公判調書により認められるので、この八月二日以後に閲覧が行われたとは考えられない。すると残るところはその前日の八月一日か或はその前日の前記第七十一回公判期日である七月三十一日の何れかであるが、証人岡林、同大塚、同桑名小新吾等の証言によれば何れも閲覧日は公判のあつた日と思うと述べているところからみて七月三十一日の第七十一回公判期日終了後と推認するのが相当である。

(三)  次に閲覧当日の模様であるが、証人岡林辰雄、同大塚一男、同桑名小新吾、同大沼新五郎、同桑原力衛、同星厳等の供述、当裁判所の昭和三十五年二月十九日、四月八日、同月十一日、七月九日各施行の検証調書(附図写真共)を総合すると、閲覧は午後二時過ぎ現在の福島地方検察庁電信室内とその室前廊下において行われ、閲覧者は弁護人岡林辰雄、同大塚一男であり、検察官側の立会人は副検事桑名小新吾、検察事務官桑原力衛であつた。閲覧時間は必らずしもはつきりしないが、一時間から二時間、長くて三時間位と推定される。閲覧時間につき検察官側で制限をしたか否かについては明確ではないが、立会人の方で制限時間の到来を告げたとは認められないこと、閲覧の終了は閲覧者の自発的意思によること、閲覧終了後検察庁内の職員退庁時刻まで相当の時間的余裕のあつたこと、閲覧者の方で閲覧の制限について抗議している形跡はなく、又その後再度の閲覧請求をしていないこと、閲覧者の一人である大塚弁護人は制限されたとの明瞭な記憶のない旨証言していること(閲覧時間の制限は閲覧請求についての従前の経緯からみて弁護人に対する不当な措置として記憶に残り易いと思われる)等を併せ考えると閲覧時間が制限されたとみることは困難である。

次に閲覧の対象となるべき証拠物件の総目録についてであるが、これが閲覧者に呈示されなかつたことは疑問の余地がない。しかし閲覧に際して閲覧者側から検察官側に対してその呈示方を求めたか否かについては必らずしもはつきりしない。少くともそれがなければ閲覧の意味がないとまでの強硬な申し入れはあつたとは認め難い。弁護人側から一応の申し入れはあつたかも知れないが、検察官側のなんらかの事情で(この事情については後述)呈示されずに終り、弁護人側からもそれについて特に検察官に対し異議を唱えたということを認めることはできない。

又弁護人等も特にその点を意識して、閲覧した全証拠につき標目をメモしたか否かについては証拠として残存するもののない以上確認するに由ないものといわなければならない。

(四)  そこで閲覧に供された証拠物件の中に問題の諏訪メモが含まれていたか否かについてであるが、(イ)閲覧に際して証拠物件の総目録が呈示されなかつたこと(ロ)前述の第七十一回公判期日において鈴木検察官は証拠物件の全部をお見せするとは確約できない旨明言していること(ハ)右の公判期日においてもそれ以前の公判期日においても弁護人側は検察官に対しその領置物件の返還、開示等についての消極的態度を屡々難詰し、切迫した空気にあつたのであるから、検察官は当然証拠の閲覧を容認したその機会において自己の公正さを全うすべく種々配慮すべきにも拘らずその努力をしていないこと、即ち証拠物件の陳列の場所、方法等につき自ら適切な指示をし、特に後述のように全証拠物件の総目録を作成していなかつたのであるから猶更疑惑の種を残さぬよう配慮しなければならないのに漫然副検事に対し弁護人側から証拠書類閲覧の請求があつたから出してやつてくれという匂括的な指示のみを与え、事余の点につき一切副検事の処置に委ねていること、(ニ)松川事件当時福島地方検察庁内においては証拠物件の保管事務等については明文の内規はなく、当時の会計法規ないし慣例に従つて行われていたが、松川事件については捜査段階からその証拠物の保管事務は別途の取扱いを受け、その為事務は成規に行われず、保管場所についても福島地区警察署、福島地方検察庁(同庁庁舎も第一審の途中に移転するという事態が生じた、)同検察庁次席検事官舎等と三ヶ所にも分れる状態であり、かくして当裁判所に対する昭和三十五年四月九日附福島地方検察庁検事正伊東勝の回答書面にもあるとおり「昭和二十四年八月十七日当時所謂松川事件について差押、領置した物件の総目録は左の理由により存在しない。当時一般的に司法警察職員が証拠物のある事件の送致をなす際には証拠金品総目録を作成し事件記録に編綴し、検察官が証拠物を押収した場合にはこれに追加記載をなしていたが右事件発生は現行刑事訴訟法施行(昭和二四、一、一)直後であり未だ『司法警察職員捜査書式様式例』(昭和二四、九、二四検事総長指示、昭和二四、一一、一より施行)並びに『犯罪捜査規範』(昭和二五、四、一八国家公安委員会規第四号、昭和二五、五、一より施行)の如き完全な捜査書類様式並びに服務要領の定められていなかつた過渡的混乱期であつた上、所謂松川事件の捜査は当庁検察官と所轄司法警察職員が共同捜査をなしたもので事件送致と言わんよりは寧ろ事件引継であつたので所轄署に於ては一般の事件送致の例による『証拠金品総目録』の作成添付をなさず、検察庁に於ても証拠金品総目録は作成しなかつたものである」という次第であつて、通常の注意のみを以てしては証拠物件の完全な保管は期し難い状況にあつたと(因みに松川事件の証拠物である継目板二枚が第一審で提出されず第二審に於て初めて提出された経緯について被疑者山本諫は同事件の差戻前第二審第六十二回公判において証人として「そういう継目板があるということを知らなかつたからであります。当審(第二審の意)で新に証拠として提出されたというその継目板は、原審(第一審の意)で提出した継目板や枕木と一しよに警察から送致されたものではなく、それらの物とは別に検察庁に送致されたので他の検察官もそれを知る機会がなかつたのではないかと思う」との記載が同公判調書にある)、(ホ)閲覧した弁護人等二人は時間を制限されることなく、強い西日のさす明るい部屋で一応満足するまで閲覧し、直後公判期日には閲覧した証拠物件の中で有利と思われる物数点につき裁判所に対し提出命令の申立をしていること、等の諸事情を総合すると故意か過失かは別として、閲覧に供された証拠物件の中には諏訪メモは含まれていなかつたのではないかという疑を抱かざるを得ないのである。

しかしながら一方には(イ)前述の第一審第七十一回公判期日における検察官・弁護人双方の証拠物閲覧に関する応酬を細かく検討してみると、検察官はなる程「全部を見せるとは確約できない」旨述べているが、「検察官は証拠湮滅は決してしない。閲覧の申込のあつたものは閲覧させる」という態度をも示しているのであつて、そこには具体的に物を指摘して閲覧の申出が為されるならば、希望にそうよう取計う旨の意図が表明されているのであるし、これは現行刑事訴訟法の一つの解釈的立場として一概に誤つていると非難することは許されず、弁護人が右法廷で述べているように、それが直ちに証拠の湮滅に結びつくものでもなく、又許されない態度でもないのであつて、されば弁護人が右非難の言葉に続けて裁判所に対して検察官に証拠の提出を命じて頂きたい旨要請したのに対し、裁判長は「標目のわからないものは提出を命ずることができない」と告げているのである。(ロ)ところが右のような検察官の態度にも拘らず現実に証拠の閲覧が行われるに当つて検察官側が閲覧の準備したところでは一応手中の証拠物件は洩れなく閲覧の場所に陳列すべく配慮していることが窺われる。すなわち前記検察官の態度によれば弁護人側の申出をまつてその申出のあつた証拠を陳列するということになるべきであるが、当日そのような応待は全くなく、準備の指揮に当つた桑名副検事は山本或は鈴木検事から全部の証拠物(但し書類のみであることを弁護人が了承済であることは窺知し得)を出して見せるようにとの指示を受けていること(ハ)当日直接陳列の作業に当つた者等は証拠物の保管場所である倉庫及び次席検事官舎内から一応余すところなく閲覧場所に運搬していること(因みに警察署に保管依頼になつていた物件は新庁舎完成後は引継を完了している)(ニ)閲覧に供された証拠物件の量はリンゴ箱三つか四つ位に相当する容積であつて、前記の閲覧時間内でも決して余裕を以て閲覧し得る容量とは思われないこと(ホ)第七十一回公判期日において為された弁護人の検察官側に対する非難や不信の態度からすれば、閲覧に供せられた証拠物件の全標目の記録は当然作成されるべきであるのにこれが為されておらず(証人岡林は全標目のメモをとつた旨供述するが、メモが現存しない以上問題解決の助けにならない)検察官の措置に信頼を寄せ得る状況にあつたこと(ヘ)短時間ではあるが一度鈴木久学検事が閲覧場所へ姿を現わし、閲覧の便宜に関し配慮を示している形跡の窺知し得ること等の事情も認められ、閲覧に供された証拠物件中、一部の物が除外されたと簡単に認めることのできぬ面もあるのである。

以上のような次第で、弁護人の閲覧に供された証拠物件の中に果して本件諏訪メモが含まれていたか否かの問題は、何れとも直ちに決定し難いところであつて、本件審判請求の当否につき判断するにはむしろ、右の問題と不可分離でもあるところの問題、すなわち被疑者等は本件諏訪メモの証拠価値を如何に判断していたのか、又諏訪メモが本件審判請求において主張するように、松川事件の「被告人の無罪を完全に証明するに足るもの」であるのか否かにつき直ちに検討を加えるのが得策であると思料するものである。蓋し此等の問題は本件審判請求の犯罪事実の存否を認定するについての最も重要な状況事実に該るからである。

第二、被疑者等の諏訪メモに対する証拠価値の判断

(一)  この問題を検討するに先だち、諏訪メモが松川事件の解決にどのように関係しているのか、言い換えると松川事件の審理の対象となつている事実中どの部分について諏訪メモがその存在と内容につき問題とされているのかという点を松川事件の上告審判決中「二、本論(一)、問題点。(二)、原判示第三、(二)の謀議について。」(最高裁判所判例集第十三巻第九号上一四二五頁以下)を参照しつゝ考察するに、

松川事件は爾余の謀議を除外すると、終局的には東芝側の被告人等と国鉄側の被告人等との間の二つの連絡謀議によつて列車顛覆に関する完全な謀議が成立し且それが実行に移されたとされるもので、従つて右の二つの連絡謀議の存否は松川事件の全般的な構造にまで影響を及ぼす程重要なものなのであるが、右二つのうち一つの連絡謀議は昭和二十四年八月十五日正午頃、東芝側の被告人佐藤一が東芝側を代表して国鉄労組福島支部事務所に赴き、被告人鈴木、同二宮、同阿部、同本田等と列車顛覆の実行の日時、場所、国鉄側東芝側の双方から出すべき人数、役割、国鉄側から参加すべき三名の氏名、爾後の連絡等につき協議し、これを諒承して松川に帰り、その結果を東芝側の被告人杉浦、同太田に報告し、その賛同を得たとされるものである。そこで問題は被告人佐藤が右日時に右の場所に赴いたか否かという点に求められることになるのであるが、更に問題を具体的に押し進めると、右の昭和二十四年八月十五日の午前中を通して東芝松川工場においては労使間の団体交渉が開かれており、しかも交渉開始後の或時間までは被告人佐藤も出席していたことが第一審以来確認されているので、同日正午の国鉄労組福島支部事務所における前記のような連絡謀議が成立するためには、被告人佐藤一は是非とも右の団体交渉を中座して福島に赴かねばならないのであり、そこでもし被告人佐藤一が右団体交渉が一旦休憩に入つた正午頃まで通して出席していたということが証明されるならば、右の連絡謀議は根柢から覆えるということにならざるを得ないのである。しかるに本件諏訪メモは右の団体交渉の経過(開始時間、出席者、発言内容等)を記録したノートというのであるから、記載内容の如何によつては被告人佐藤一のアリバイの証明上極めて有力な資料たり得るということになるのである。

(二)  一方本件被疑者三名等は第一審の検察官として前記の昭和二十四年八月十五日の謀議について、被告人佐藤一は同日午前十一時過より松川を出発して国鉄労組福島支部事務所に赴いて汽車顛覆の謀議に参画したものと認定し、被告人佐藤一が八月十五日午前中も午後も松川町に居り、検察官主張の国鉄労組事務所での謀議には関係ないという被告人側のアリバイ主張を関係証拠を検討しつつ反駁している(第一審第八十三回第八十四回公判における検事の論告)のであるが、問題の諏訪メモについては、一言半句も言及していないのである。

そこで先ず被疑者山本諫は諏訪メモが法廷に提出されなかつたこと及びその証拠価値について次のように供述する。「諏訪メモは公判が始つた頃に一度公判立会検事三人の間で検討した記憶がある。なる程諏訪メモには八月十五日午前中の団交の席上における佐藤一の発言が記載されてはいるが、団交が何時終つたという記載がない。従つて検察官の主張を積極的に支持するものとして、団交の席上に最後までいなかつたという証拠にもならないし、又最後までいたという被告人側のアリバイの証拠にもならないと判断した。われわれとしては他の証拠によつて国鉄労組事務所での謀議に佐藤が参加したことを立証できると考えたし、又将来被告人側の反証に備えるため、右メモを公判には提出はしないが、一応手元に留保しておこうということに決めたのである」と。

次に被疑者田島勇は当裁判所に対し、「第一審当時時期は憶えていないが、諏訪メモについて検討したことがある。諏訪メモは労使間の団体交渉の経過を会社側で記録したものであるが、われわれとしては当然組合側でも記録をとつておるものと考え、そしてそれが公判に提出されるものと予想した。たゞそれが被告人側に有利に、例えば佐藤一が午後の団交でも出席したように記載されたものとして提出してきたような場合に、反証として諏訪メモを提出しようと判断した。検察側の主張すなわち謀議の存在については他の証拠から証明できると考え、諏訪メモは右に述べたような意味で反証に備え、法廷には積極的に提出しなかつたものである」と述べている。

被疑者鈴木久学は当裁判所に対し「われわれが諏訪メモを法廷に提出しなかつたのは先ずメモの信憑性に疑いをもつたからである。メモは二冊あるが、両者は同一日時の記載事項について異つた内容が記されて矛盾しており、又団交の経過の記録については、それが正常の状態の下になされたかどうか疑わしいと考えていた。又団交の記録は組合側でも当然なされていることでもあろうし、それが被告人側から証拠として提出され、その記録に八月十五日午後の団交にも佐藤一が出席していたとでも記載されているとすれば、その場合に諏訪メモで反駁しようと考えた。又諏訪メモの八月十五日午前中の記載については、団交の終了時刻が記されていない以上積極、消極何れにも証拠価値はないと判断した。

以上のようなことを公判立会検事の間で協議した上で諏訪メモは公判に提出することなく、反証の機会に備えて手元に留保しておいたものである」と述べている。

(三)  以上三名の被疑者等の供述を総合すると、(イ)被疑者等は第一審公判の段階になつてから公判進行に備え諏訪メモの取扱いについて少くとも一回は協議しその際諏訪メモは検察側から積極的に公判に提出はしない、しかし差出人にメモを還付はせず留保しておくことに定めたこと。理由として、(ロ)諏訪メモには問題の八月十五日午前中の団交の終了時刻が記載されておらず、たとえ佐藤一の団交席上における発言が記載されておろうとも、直ちに正午迄在席していたことにもならないし、或は又在席していたかも知らないがこのメモによつては明確に立証し得ず、要するに午前中の佐藤一の行動について積極、消極何れについても諏訪メモによつて解決できない。(ハ)むしろ諏訪メモは八月十五日午後の団交に佐藤一が出席していないように記載されている点に意義がある。すなわち団交メモは会社側だけでなく組合側でも作成していたことは容易に推認し得るところであるから、若し被告人側からその組合で作成した団交メモを法廷に提出し、メモに午後の団交にも佐藤一が出席しているような記載にでもなつているならば、諏訪メモで反駁する。(ニ)団交メモは団交における異常な雰囲気の下で作成されたものであり、且又二冊の諏訪メモを対比すると矛盾した記載があつて、必らずしも正確とはいえず、積極的に証拠として提出できない事情にあり、従つて相手方がメモで争つてきた場合に初めてこちらもメモで反駁することにする等の理由により一応証拠の提出は留保し、従つて又差出人への還付もしないこと等を協議しているのであつて、要するに被疑者等が諏訪メモに被告人にとつて絶対に有利な記載事項があるとの判断を下したことは認めることはできないのである。

第三、諏訪メモは松川事件の全被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠価値を有するものであるか

(一)  この問題を検討する意義は、

(イ) 前述のように、弁護人等の閲覧に供された証拠物件中に果して諏訪メモが存在したか否かの点を討究するうえで、本問を積極に解することができるとすれば、前述のような諸事情と相まつて閲覧の対象物件中諏訪メモの存在しない公算が愈々大となるだけでなくひいては被疑者に証拠を隠匿した意思のあつたことをも推断し得ることにもなるのであり、

(ロ) 逆に本問が消極に解し得られるとすれば、諏訪メモの証拠としての取扱は、実務上判例・通説により理解されているように刑事訴訟法に則つて為されれば足り、従つて前述のように本件犯罪が成立する前提要件としての検察官が証拠を開示する作為義務も発生しないので本件審判請求にかゝる犯罪は不成立ということになるのである。

(二)  そこで諏訪メモが松川事件の被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠価値を有するものか否かという問題であるが、形式的に論ずるならば、この問題は松川事件そのものについて審判する裁判所であつてこそ可能ということができこそすれ、かゝる審判の任務を負わない当裁判所にとつては不可能というのほかない。蓋し証拠の価値判断は、該証拠自体についてその証拠価値を判断し得ることも皆無とはいえないが、通常は事件全体を展望しつゝ関係証拠との対比、立証趣旨との相関関係において定まるものであつて、固定的、静止的に論ずることのできないものだからである。

しかしながら本問の解決には前述のような意義があるので、一応諏訪メモがそれ自体について証拠価値を判断し得る場合に該るものとして以下この問題について検討することとする。

諏訪メモが松川事件の審判上如何なる存在意義を有するかは、前述の「第二、被疑者等の諏訪メモに対する証拠価値の判断(一)」の個所で述べたところをこゝに引用することとするが、論点は結局昭和二十四年八月十五日午前中の東芝松川工場における労使間の団体交渉に、被告人佐藤一が最後まで出席しており、従つて同人が同日午前十一時過松川を出発して国鉄労組福島支部事務所に赴くことは全く不可能であるという事実をめぐり、本件諏訪メモが右事実を完全に証明するに足る資料たり得るか否かということである。

(三)  そこで先ず諏訪メモ二冊の記載内容を検討してみるに、「証第三〇七ノ一号」と表記してあるノートについては、その表紙を除いて十一枚目の表から問題の八月十五日の団交の模様の記載が始つており、十四枚目の表で午前中の団交の経過のメモは終つている。一方「証第三〇七ノ二号」と表記してあるノートについては、その表紙を除いて八枚目の裏に八月十五日当日の経過がメモされているが、こゝには単に「a.m.9.20課長会ギ(一行目)従業員比較的低調(二行目)a.m.10.30杉浦の外執行部全員ニテ(三行目)団交再開方交渉 拒否、(四行目)午後ニ及びp.m.4.30ニ及ブ(五行目)以下略」とあつて団交の経過については全く触れていないので、内容の検討を要するのは主に「証第三〇七の一号」に対してであるということになるのである。

そこで諏訪メモ一号の前記個所を更に詳細に調べてみると、昭和二十四年八月十五日佐藤一を加えた労組員九名と工場側とが団体交渉をしたこと、開始時刻は午前十時三十分であること、工場長(〈長〉の記号)と杉浦(〈杉〉の記号)とのやりとりが大部分を占め、佐藤一の発言は途中に一回と最後に一回と合計二回であり、最後の発言はノート一頁を殆ど占める十九行と最後の一頁の約三分の一を占める八行の行数でその内容が記され、それは他の個々の発言内容の量に比して圧倒的に多いこと、杉浦・佐藤以外の労組員の発言の記載がないこと、午前中の団交終了時刻の記載がないこと、中座した者の記載がないこと等を認めることができるのである。

従つて右記載事実を前提とすると、前記最高裁判所判決(同判例集一四三五頁以下)のように「(諏訪)メモの記載によれば、昭和二四年八月一五日午前一〇時三〇分より東芝の団体交渉が開かれ、被告人佐藤一もこれに出席したが、同人の資格問題が論争となり結局会社側で納得されるに至つて、同人の発言は相当長く継続し、午前中の最後頃まで発言していたのではないかと窺われる節もあつて、」という証拠価値判断に到達せざるを得ないのである。

しかしながら、右判決が諏訪メモに松川事件の被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠価値があるものと判断したと速断することは右証拠価値判断の文言に徴して許されないであろう。そして又諏訪メモが団体交渉の経過の速記録ではなく、要旨の摘録にすぎないことを併せ考えれば、結局諏訪メモの記載のみによつては団体交渉の経緯は細部の点に至つては推測の域を越え得ないものというほかないのである。仮に団体交渉の経過を映画用フイルムで撮影したフイルムがあるとするならば、それに後の工作が加えられていない限り、それは交渉人員の挙措進退を完全に再現し得ると期待できるであろう。しかし録音がなければ交渉人員の発言内容について知ることは全く不可能であろう。一方交渉経過の録音テープがあり、それが後の工作が加えられておらない限り、交渉人員の発言内容は完全に再現し得ることが期待できるであろう。しかしこの場合は前とは逆に交渉人員の挙措進退を知ることはできないであろう。こゝに両者が合して初めて略完全な団交の経過の再現が可能となるのである。従つて例えば、団交の或る瞬間を撮影した写真や速記録と雖も右の両者の場合に比べて完全な再現を期待することはできないであろう。況や交渉経過の要点摘録式のメモが更に不完全な記録でしかないことは容易に理解できるであろう。尤も、要証事項の如何によつては、記録の精密度にかゝわりないの場合もあり得るであろう。例えば団体交渉の開かれた年月日、開始時刻、終了時刻等内容に変化を含まない事項についてはメモ程度の簡単なもので足りると考えられる。要するに、本件で問題となつているような被告人佐藤一が前記日時の団体交渉に最後まで出席し、中座しなかつたか否かという事実に対しては諏訪メモは精密を欠く記録でしかないのであり、発言者の発言内容の要旨が記されているにすぎないこと、発言のすべてが記録されたのかも明かではないこと、終了時刻が記されていないこと、その間に記録者の取捨選択が行われていること等に鑑みると、記載自体について如何に精密な検討を施し団交の経過の再現を試みたとしても、あくまでもそれは一つの可能な推測の域を出ないのであつて、諏訪メモそのものが精密な証拠資料と化することにならないのはいうまでもないであろう。従つて結局団交の経過ないし佐藤一のアリバイに関し、より明確なものを求めようと欲するならば、諏訪メモの不完全を補う他の証拠の検討を迫られざるを得ないのである。

(四)  かような補充証拠としては工場側に諏訪メモという団交記録があるならば、交渉相手である労働組合側にも団交記録はないのかということが考えられる。所謂田中メモの存在がこれに対する答である。田中メモとは、前記松川工場における労使間の団体交渉において組合側の出席者の一員である田中秀教が作成した団交記録である。田中メモと諏訪メモとを対比して著しく注意を惹く点は、田中メモの冒頭に「八月十五日前九時三五分交渉入ル」との記載のあることである。前記最高裁判所の判決が諏訪メモの記載によつて、佐藤一が問題の八月十五日午前中の団体交渉の最後頃まで発言していたのではないかと窺われる節もあるという証拠価値判断を下したのは、団交の開始時刻を諏訪メモの記載どおり午前十時三十分としてのうえであることは右判決文の記載からも窺われるところであるから、この団交開始時刻が約一時間も遡るならば、佐藤一の行動についての評価はしかく簡単に結論を下すことはできないと言わねばならなくなるのである。なるほど午前中の団交メモの終りには佐藤一の発言があつたように諏訪メモ・田中メモ両方に記載がある。しかし団交メモの終了したところがすなわち団交の終了であるのか否かは、両方のメモを如何に詳細に検討しようとも、その点の記載がない以上メモ自体によつては明らかとはならないと判断するほかないのである。従つて前述したように、諏訪メモの証拠価値判断は単に右メモ自体によつては為し得ないばかりでなく、他の証拠との関連において為す場合においてもひいては事件全体の展望においてなすのでなければ到底正鵠を期することのできないのは当然であつて、この理を省みずに、たとえ松川事件の全般的な構造にまで影響を及ぼす程重要なものと評されているものの、単に諏訪メモだけで昭和二十四年八月十五日当日の被告人佐藤一の行動について判断を下すのは畢竟局部的見地からの判断以上には出ず、松川事件全体からみるならば樹を見て森を見ざるの愚を演ずるに等しいとの譏を免れることができないというべきであろう。かゝるが故に諏訪メモに松川事件の被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠価値があるか否かの問題については、右メモ自体については消極に解さざるを得ないと判断するものである。

第四、被疑者等の諏訪メモに対する支配力

(一)(イ)  すでに諏訪メモの保管者移転の外形的推移について述べたところにより明らかなように、昭和三十三年九月四日に諏訪メモはその提出者諏訪親一郎に還付されており、それ以後の諏訪親一郎のメモの保管については被疑者等との間に何等の通謀もないことは証人諏訪親一郎の供述により明らかであるから、先ず昭和三十三年九月四日以後については被疑者等の諏訪メモに対する支配力は全くないものと認められる。

(ロ)  次に昭和三十二年六月下旬より翌昭和三十三年九月四日迄の間。この期間における諏訪メモの保管場所は福島地方検察庁内、最高検察庁内と移転しているが、保管責任者は前者においては同庁検察事務官島倉保であり、後者は同庁検事神山欣治であつて、同人等の証人としての供述によれば、被疑者等との間にメモ保管に関する通謀は全く認められないので、この期間においても被疑者等の諏訪メモに対する支配力は全くなかつたということになる。

(二)  結局問題は被疑者等が諏訪メモの存在を認知したという第一審第一回公判期日である昭和二十四年十二月五日前後頃より昭和三十二年六月下旬までの間においてはどうであつたかということに帰する。何故なら昭和三十二年六月末に、それまで当然には福島地方検察庁内に保管されておらねばならなかつた諏訪メモが、松川事件第一審公判立会検事の補助者であつた同庁副検事大沼新五郎が庁外保管してあつたメモをその頃再び同庁内に持参した事実のあること、及びそれまでその行方が問題とされていたメモについて同じ頃毎日新聞福島版に「諏訪メモ発見さる、鈴木検事が保管」との見出しの記事が発表され、世人の注目をひいたことがあつたからである。

(イ) 先ず右の問題の期間中におけるメモの保管場所と保管責任者については前記認定のとおりであつて、副検事大沼新五郎が一貫してその保管に当つていたのであつた。尤も大沼が保管したのは諏訪メモだけではなく松川事件に関する供述調書及び証拠物中特に検事が手元において常時検討を要し、直接の保管者である会計官からの頻繁な仮出手続を省略した物も含まれてはいた。ところで、検討を要するのは、第一審公判が終了した後の諏訪メモの保管場所である。一般に検察官は第一審公判中裁判所に提出しなかつた証拠物は第一審で確定した場合には独自の判断によつて処分するが、事件が控訴審に移つた場合には一応そのまゝ保管を継続するのであつて当然に証拠物は高等検察庁に送付されることなく、控訴審の検事が指示した物についてのみ送付するという方針をとつている(被疑者山本諫・証人桑名小新吾の供述)ようであり、松川事件に関しても第一審公判における主任検事であつた被疑者山本諫は、第一審終結後証拠物の処理については控訴審検事の指揮を受けること、証拠物の保管については従前と同じく大沼副検事が責任を持つようにと指揮したと供述している。従つて第一審公判において提出されなかつた証拠物は、控訴審検事の指示のない限り福島地方検察庁内に継続して保管されるのが当然の処置であつたということができる。

(ロ) しかるに現実の保管場所がどうであつたかは先に述べたとおりである。昭和二十七年九月中旬から十一月中旬まで仙台高等検察庁の松川事件担当検事の事務補助を命ぜられ、同じ頃盛岡区検察庁へ転勤になつた前記大沼副検事は福島地方検察庁次席検事室の松川事件関係キヤビネツトから諏訪メモ及びこれに関連する調書等を持ち出し仙台高検に持参し、高検検事に検討してもらつたということである(大沼副検事の昭和三十四年三月二十六日附磯山利雄検事に対する供述調書)。だが一体何のための検討であるか。高検検事の指示に基くものであるか。第二審公判立会主任検事であつた山口一夫検事は証人として大沼副検事より諏訪メモ等の検討を求められたことは全く記憶しておらないし、諏訪メモの持参方を指示した記憶もないと述べている。又大沼副検事は福島地検より諏訪メモ等を持ち出すことについて第一審の担当検事であつた被疑者等に何らの相談もせずに全く独自の判断のもとに為した旨証言している。しかし大沼副検事は第一審以来松川事件について検事の補助者ではあつたが、事件の実体の判断にまで立入つた職務を行つていたかどうかについては明確ではなく、第二審の山口検事も大沼副検事に事務補助者として来てもらつたのは、第一審担当の検事が都合が悪くて誰にも来てもらえなかつた為であつて、大沼からは一応ヒントを得る位のつもりであつたと証言しているところを見れば、大沼副検事の右の処置は甚だ理解に苦しむところのものである。又同人の証言全体からみても、明瞭な説明は殆ど得られない。

(ハ) 大沼副検事の不可解な行為はそれのみに止らない。同人は仙台高検の事務補助を解かれ、勤務地である盛岡区検察庁に赴任する際にも諏訪メモ等をたずさえ、同庁に継続保管し、次いで釜石区検察庁に転勤するに際してもメモ等を携帯し同庁に保管していた。この間福島地検の証拠品保管責任者に対して全く何の連絡もしていない。同人が赴任した盛岡区検察庁及び釜石区検察庁が松川事件と何の関係もないことは無論、大沼副検事が仙台高検事務補助を命ぜられて諏訪メモが福島地検より持ち出され、そして再び返戻するまでの四年九ヶ月間メモは終始同人の掌握下にあつたということになるのであるが、しかも福島地検で何人もかゝる事情にあることを知らなかつたということであるが、このような証拠品の取扱は一体許されるものなのであろうか。この間の事情について大沼副検事の磯山検事に対する前記供述調書によれば次のような趣旨の記載がある。

「諏訪メモ等は正式に仙台高検に引継いだものではなく、自分の責任において福島地検から仮出したものであつたから、仙台高検の事務補助を解かれて盛岡区検に赴任する際にも同高検に預け放しにしておくわけにはいかなかつた。又盛岡区検へ赴任するについても、出来る限り早い機会に、仙台区検か福島区検に配置換になるとも聞いていたので、その折にでも福島地検に証拠品を返せばよいであろうと考え、そのまま盛岡区検まで携帯していつた。その後釜石区検に転勤になつて益々福島から離れることになり、証拠品の非常に変則的な保管が気になつていたのであるが、返戻する機会がなく延々になつてしまつたのである」と。

これでは検察官の常識からはかなり遠い処置であると非難されてもやむを得ないのではなかろうか。

(ニ) かようにして昭和三十二年六月二十四日朝日新聞に突如として「“死刑覆えす新事実”佐藤被告のアリバイ・メモ松川事件弁護団、公開要求」という見出しの下に、前述したような経緯で仙台弁護士会が団交メモに関し弁護士法に基く照会をしたこと、松川事件弁護団が最高検察庁に対し団交メモの公開を要求することになつている等の記事が報道された。当時福島地方検察庁には松川事件第一審に関与した検察官は一人も在勤していなかつたが、同庁検事正、次席検事等は早速問題の団交メモの存否を調査したところ、諏訪メモは仮出したまゝになつていて庁内に存在しないことが判明したので、松川事件第一審担当検察官であつた鈴木久学(当時郡山支部勤務)、田島勇(当時仙台高検勤務)等に問い合せたところが第二審にも立会つていないし証拠品がその後どうなつているかは記憶していないということであつた。次いで第一審当時松川事件の証拠品保管の任にあつたという大沼副検事を事情聴取のため召喚したところ、前記のような経緯のもとに諏訪メモ等の返戻の機会を待つていた同人は、直ちに保管中の諏訪メモ他松川事件関係の書類数点を携えて福島地検へ来庁し検事正の面前に提出したのであつた(証人宮本彦仙、同福田正男、同大沼新五郎の各供述)。その後まもなく同年六月二十九日に毎日新聞福島版は「諏訪メモ発見さる 鈴木検事が保管 弁護団側で突きとめる」との見出しで諏訪メモの所在が判明したと報じた。

(ホ) 以上によつて明らかなように、松川事件第二審が係属して後の諏訪メモは大沼新五郎副検事の独断からする同人の完全な掌握下にあり、被疑者等の支配からは脱落していたと認められるのである。尤もそのような管理方法が異常であつて、非難に値することは何人の目から見ても明らかなのであるが、そのような管理方法を被疑者等が指示し又は右管理方法を諒知していたと認めるに足る証拠は存在しないのである。

(ヘ) 最後に第一審公判段階における被疑者等の諏訪メモに対する支配であるが、この段階では大沼副検事が松川事件関係の証拠品、調書等の直接の保管者であつたので、被疑者等は大沼を通じて間接に諏訪メモを支配していたということができよう。しかしながらこの段階において被疑者等が諏訪メモを公判に提出せず、手元に留めておいたのは既に述べた被疑者等の諏訪メモに対する証拠価値判断に基くものであつて、従つてその証拠の留保は他の一般証拠と異るところのない適法な領置と見なされ得るのである。

第五、結論

以上に述べたとおり、諏訪メモが松川事件の法廷外において弁護人らの閲覧に供された証拠物件中に明かに存在したと認定するに足る証拠がないと共に、同メモそれ自体によつては、本件審判請求において主張するように、松川事件の被告人の無罪を完全に証明するに足る証拠価値を有すると直ちに判明し得る程明確な証拠資料ということはできず、又他の証拠資料との関連における証拠価値についても、結局松川事件全体の立場からのみ判断し得るのであつて、局部的立場からは正しい判断を下し得ないものと思料するものである。従つて被疑者らの下した諏訪メモについての前記のような証拠価値判断の存在を否定する資料がない以上、被疑者らの右判断は全く首肯し難い独自の判断とのみ断ずることはできないわけであつて、この故に被疑者らが本件諏訪メモを公判廷に提出しなかつたことについては本件審判請求にかゝる犯罪成立要件としての行為者の主観的意思が存在しないということになるのである。

惟うに諏訪メモが最高裁判所大法廷に提出される迄の検察当局の保管方法が前説示のとおりまことに明朗を欠くものがあり、この事情に後述附論において述べた接見簿に関する問題を併せ考えるときは本件審判請求にかゝる犯罪事実の存在したのではないかという疑惑が極めて濃厚なるの感を禁じ得ないのであるが、当裁判所としては法の許容する一切の手続を尽して事案の真相の究明に全身全霊を傾けたけれども、遂に右犯罪の行為が被疑者三名の共謀によつては勿論、各単独にて為されたとの嫌疑を把捉することができなかつた次第である。

(因みに被疑者らの諏訪メモに対する支配は前記のように昭和二十七年九月までであつて、仮に審判請求にかかる犯罪の行為がその時点迄継続していたとするも爾来八年余の年月が経過しており、公訴時効の観点からみればこれの既に完成していることは明らかである。)

第六、附論

最後に請求人等は、被疑者等は諏訪メモのみならず松川事件関係の証拠で、同事件の被告人等の無罪を証明するに足りる証拠すなわち所謂事故簿および接見簿をも湮滅した旨を述べているのでこの点につき検討するに、先ず事故簿については、関係証拠によると結局問題の事故簿が検察庁当局に押収されたとの旧第二審における証人伊藤孝明の供述は感違いによるものと認められるので、事故簿が検察官に領置されたことを前提とする申立人等の主張はこの点においてすでに問題とするに足りない。

次に接見簿についてであるが、右証拠が本件被疑者等の手中にあつたことは否定し得ないところではあるけれども、旧第二審公判廷に顕出されなかつた経緯が、郡山警察署長のずさんな調査によるものか、旧第二審公判立会検事の所為によるものか、将又弁護人等の右証拠の所在調査についての努力が足りなかつたものであるか、何れとも判明し難いところであつて、少くとも本件被疑者等が、右接見簿が旧第二審公判廷において問題とされていることについて認知していたと認めるに足る証拠がないので、結局接見簿が旧第二審公判廷に顕出されなかつたことについての責任を被疑者等に対して問うことは当を得ないものといわなければならない。

因みに右接見簿は昭和三十三年八月二十八日福島地方検察庁より差出人である郡山警察署へ還付されているが、接見簿に関する限り、旧第二審公判の過程における検察庁、警察署の態度には誠に釈然としないもののあることは否定し得ないところである。

以上の理由により本件各請求は理由がないから、刑事訴訟法第二百六十六条第一号を適用し主文のとおり決定する。

(裁判官 菅野保之 宮脇辰雄 山下薫)

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